LOGIN結月内親王を「普通の十九歳の女子大生」に見せる。
言葉にすると簡単だった。
しかし実際にやってみると、これが想像以上に難しい。
「……もう少し肩の力を抜いていただけますか」
「抜いております」
「まだ抜けておりません」
「では、これ以上どうすればよいのでしょう」
「そこを今から考えます」
瑞穂宮邸の一室。
姿見の前に立った結月は、三人の女性職員と黒川沙耶に囲まれていた。
現在の服装は、白いブラウスに紺色のカーディガン、淡いベージュのロングスカート、白いスニーカー。
服そのものは、ごく普通である。
値段も特別高くない。
ブランドのロゴが目立つわけでもない。
鞄も、街中で大学生が持っていそうな帆布のトートバッグへ変更した。
にもかかわらず。
どう見ても普通ではなかった。
「なんでしょうね」
女性職員の一人が腕を組んだ。
「服は普通なんです」
「はい」
「髪型も、そこまで特別ではありません」
「はい」
「でも、どうしてでしょう」
結月は不安になる。
「似合っていないのでしょうか」
「いえ、むしろ似合いすぎています」
「それは問題なのですか」
「今は少し」
意味が分からない。
結月は鏡を見る。
自分としてはかなり地味な格好に見える。
公務で身につける服に比べれば装飾も少ないし、色合いも落ち着いている。
「黒川さん」
「はい」
「私、普通に見えませんか」
沙耶は少し考えた。
「普通の服を着た、かなり育ちの良い方に見えます」
「それでは駄目なのですか」
「大学に育ちの良い学生がいてはいけないわけではありません。ただ、結衣さんの場合は目立ちます」
「服装が地味なのに?」
「服装の問題ではないと思います」
結月は首を傾げた。
すると職員の一人が、少し申し訳なさそうに言った。
「立ち方ですね」
「立ち方?」
「はい。それと、手の置き方」
結月は自分の手を見る。
自然に腹部の前で重ねていた。
「こちらは何かおかしいでしょうか」
「おかしくはないんです。ただ、大学生が友達を待っているときの立ち方ではありません」
「では、どのように待つのですか」
三人の職員が少し困った顔をした。
説明しろと言われると難しい。
「もっと、こう……」
一人が壁にもたれた。
「こういう感じでしょうか」
「壁へ体重を預けるのですか」
「そうですね」
「失礼にはあたりませんか」
「大学では誰も気にしません」
「そうなのですか」
結月は壁へ近づき、慎重にもたれた。
背筋は伸びたまま。
足は揃っている。
手はやはり前で重なっている。
「……違いますね」
「何が違うのでしょう」
「壁にもたれているのに、公式写真みたいです」
部屋に小さな笑いが起きた。
結月は少し頬を膨らませる。
「皆さん、楽しんでいませんか」
「申し訳ありません」
言いながら、全員まだ笑っている。
沙耶だけは無表情だったが、よく見ると口元がわずかに緩んでいた。
「黒川さんまで」
「笑っていません」
「今、少し笑いました」
「気のせいです」
「昨日も同じようなことをおっしゃいましたね」
沙耶は答えず、手元の資料へ視線を落とした。
「姿勢は、無理に崩さなくてもよいと思います」
「よいのですか」
「はい。育ちの良い家庭の学生という設定にすれば、ある程度説明できます」
「設定?」
「結衣さんの経歴です」
そう言われて、結月は表情を引き締めた。
今日の本題は、むしろこちらだった。
服を変えるだけでは、水瀬結衣にはなれない。
どこで生まれたのか。
どこで育ったのか。
両親は何をしているのか。
どの学校を出たのか。
友人に尋ねられたとき、矛盾なく答えられる程度の経歴が必要になる。
「水瀬結衣。十九歳。都内出身。父親は会社員、母親は専業主婦」
「少し待ってください」
「何でしょう」
「父が会社員というのは、どのような会社でしょう」
「そこまで細かく聞かれることは少ないでしょうが、民間企業勤務という程度で」
「業種は?」
「……商社ということにしますか」
「商社にもさまざまあります」
「結衣さん」
沙耶がこちらを見る。
「はい」
「設定を作り込みすぎると、逆に覚えることが増えます」
「ですが、誰かに詳しく尋ねられた場合は」
「そのときは『詳しいことはよく分からない』で構いません」
「父の仕事を?」
「普通の大学生でも、親の仕事内容を細かく説明できない人はいます」
「そうなのですか」
「います」
結月は驚いた。
「家庭内で確認しないのでしょうか」
「毎週業務報告を受けるわけではありませんので」
「……なるほど」
また一つ、知らない普通を知った。
「母親についても、あまり細かく設定しません。兄弟はいないことにします」
「弟がいるのに?」
「実際の家族構成へ近づけると、正体へ結びつく情報が増えます」
「直希が存在しないことになるのですね」
「設定上は」
「少し寂しいです」
「本人に言えば喜ぶのではないでしょうか」
「なぜですか」
「姉から解放された、と」
結月はじっと沙耶を見る。
「黒川さん、直希といつの間にそのような話をしたのですか」
「雑談です」
「私の知らないところで仲良くならないでください」
「それは難しいです」
「なぜです」
「警護上、殿下のご家族とも接点がありますので」
正論で返されてしまった。
結月は少し不満だった。
「出身高校については、提携校の協力を得て、外部から確認された場合にも不自然にならない形を取ります」
「そこまで必要なのですね」
「必要です。今はインターネットで簡単に調べられますから」
その言葉で、少しだけ空気が変わる。
結月も真剣な顔になった。
「もし、誰かが私を調べたら」
「完全に防ぐことはできません」
沙耶は曖昧にしなかった。
「ですから、何も起きない前提にはしません。疑われたとき、すぐに正体へたどり着かれないようにする。そのための準備です」
「……分かりました」
結月は頷く。
楽しみにしている大学生活。
けれど、その裏では多くの人が、自分の自由のために準備している。
それを忘れてはいけないと思った。
「次は話し方です」
職員が話題を変えた。
「話し方?」
「はい。殿下の現在のお話し方は、とても丁寧です」
「ありがとうございます」
「褒めてはいるのですが、友人同士では少し距離を感じるかもしれません」
結月は考え込んだ。
「では、乱暴な言葉を使うのですか」
「そこまでは必要ありません」
「『おい』とか」
「使わなくて大丈夫です」
「『やばい』」
「急に覚えた言葉を無理に使わないでください」
「昨日、直希がよく使っていました」
「なおさらです」
職員たちがまた笑う。
「では、例えば初対面の同級生に声をかけられたとします」
「はい」
「『今日の授業、一緒だよね。隣いい?』と言われました。どう答えますか」
結月はすぐに答えた。
「もちろんです。どうぞお掛けください」
全員が黙った。
「……違いますか」
「丁寧すぎます」
「では」
結月は考える。
「はい。どうぞ」
「まだ少し硬いですね」
「では、何と?」
「『うん、いいよ』くらいで大丈夫です」
「うん、いいよ」
結月は声に出した。
何とも落ち着かない。
「もう一度」
「うん、いいよ」
「もっと自然に」
「うん、いいよ」
「今のはかなり自然でした」
「本当ですか」
少し嬉しい。
「では次です。友達から『今日、一緒にお昼食べない?』と聞かれました」
「ぜひご一緒させてください」
「戻っています」
「……うん。一緒に食べよう」
「いいですね」
「意外と難しいですね」
「長年の癖ですから」
結月はメモを取ろうとして、ふと止まった。
「会話をメモするのは不自然でしょうか」
「かなり不自然です」
「では覚えます」
「これを暗記すると、もっと不自然になる気もしますが」
沙耶がぼそりと言った。
「どういう意味ですか」
「会話は台本ではありません」
結月は少し黙った。
「……それは、分かっています」
でも、どこか耳が痛い。
結月は人と話すとき、無意識に正解を探してしまう。
相手を不快にさせない返答。
立場にふさわしい言葉。
誤解されない表現。
それを考えてから口にする癖がある。
「黒川さん」
「はい」
「普通の人は、話す前にそこまで考えないのですか」
「人によると思います」
「黒川さんは?」
「私は考えます」
「では同じですね」
「仕事中は、です」
「友人と話すときは?」
沙耶は少し困った顔をした。
「……あまり考えません」
「失言したら?」
「謝ります」
また、それだ。
母も言っていた。
失敗したら謝る。
結月は、その単純さがまだ少し怖かった。
「次は持ち物です」
机の上へ、職員がいくつかの物を並べる。
財布。
ハンカチ。
スマートフォン。
化粧ポーチ。
折り畳み傘。
学生らしい文房具。
そして、トートバッグ。
「現在お使いの財布は使用しません」
「なぜですか」
「見れば高価なものだと分かります」
「では、こちらを?」
「はい」
結月は新しい財布を手に取った。
シンプルな茶色。
手触りも悪くない。
「素敵ですね」
「気に入りましたか」
「はい」
値段を聞いて、さらに驚いた。
「こんなに安いのですか」
職員が苦笑する。
「大学生としては普通だと思います」
「これで何年くらい使えるのでしょう」
「使い方によりますが、数年は」
「すごいですね」
「また感動しています」
沙耶に言われた。
「よいものを安く作るというのは素晴らしいことだと思います」
「それ自体は否定しません」
次にスマートフォン。
普段使っている端末とは別のものが用意されていた。
「大学生活ではこちらを使います。連絡先も新しくします」
「家族とは?」
「必要な連絡はできるように設定します」
「直希には教えないでください」
「なぜです」
「絶対に変なメッセージを送ってきます」
「すでに新しい番号を知りたがっていました」
「どうして彼は情報が早いのですか」
「宮邸内におりますので」
結月はため息をつく。
そして、もう一つの問題に気づいた。
「友人と連絡先を交換するときは、どうするのでしょう」
「普通に交換してください」
「普通に」
「メッセージアプリのIDやQRコードを使います」
「その練習も必要ですね」
「必要です」
結月は真剣に頷いた。
この真剣さこそが、周囲を少し不安にさせているのだが、本人は気づいていない。
「次は髪型です」
女性職員が結月の背後に立つ。
「今のままだと、公式行事の写真と印象が近いので、少し変えます」
「切るのですか」
「大きくは切りません。前髪と分け目を変えて、普段は眼鏡をかけるのもよいと思います」
「眼鏡」
試しに黒縁の眼鏡を渡される。
結月はかけて、鏡を見る。
「どうでしょう」
全員が少し黙った。
「……どうしました?」
「似合います」
「問題でしょうか」
「いえ。ただ」
「ただ?」
職員の一人が言いにくそうにする。
「地味になるというより、知的な美人になりました」
「それでは意味がないのでは」
「完全に目立たなくするのは難しそうですね」
結月は鏡の中の自分を見る。
たしかに印象は変わった。
けれど、別人には見えない。
「化粧を薄くすれば」
「殿下はもともと公務以外ではかなり薄いです」
「では濃くする?」
「逆に目立ちます」
「帽子は?」
「毎日かぶると不自然です」
「マスク」
「講義中もずっとつけるおつもりですか」
「……難しいですね」
本人が本気なので、誰も笑えない。
いや、少し笑っている。
「結局」
沙耶が口を開いた。
「完全に別人になるより、『似ている気がするけれど、まさか本人ではないだろう』と思わせるほうが現実的です」
「まさか皇族が普通に大学にいるとは思わない、ということでしょうか」
「はい」
「では、私が普通に振る舞うことが最も重要なのですね」
「そうなります」
結月は真剣に頷いた。
そしてその数秒後。
「ところで黒川さん。大学では、同級生へ『ごきげんよう』と挨拶してもよいのでしょうか」
「駄目です」
即答だった。
「なぜです」
「目立つからです」
「素敵な挨拶だと思います」
「日常的に使う大学生はかなり少数です」
「では『おはようございます』」
「それなら問題ありません」
「午後の場合は?」
「こんにちは」
「夕方は?」
「こんにちはでもいいです」
「夜は?」
「こんばんは」
「相手が友達なら?」
「『おはよう』とか『やっほー』とか」
結月の表情が止まった。
「やっほー」
「無理に使わなくて大丈夫です」
「いえ、覚えます」
「覚えなくていいです」
「水瀬結衣なら使うかもしれません」
「設定を作り込みすぎです」
今度こそ、全員が笑った。
◇
昼過ぎ。
訓練は、会話の実践へ移った。
協力役として呼ばれたのは、宮邸で働く若い女性職員二人だった。
二人には、結月をただの大学生だと思って接するよう指示が出ている。
「では、初対面という設定でお願いします」
沙耶が言う。
結月は椅子へ座る。
向かいに二人の女性。
なぜか、公務より緊張した。
「はじめまして」
一人が明るく笑う。
「同じ学部だよね? 私、山田彩香。よろしく」
結月は反射的に姿勢を正した。
「水瀬結衣と申します。本日はお声がけいただき、ありがとうございます」
沙耶が目を閉じた。
相手役の女性は笑いをこらえている。
「……硬いですね」
「今のは駄目ですか」
「友達になる前に面接が始まりそうです」
結月は少し落ち込んだ。
「もう一度お願いします」
やり直す。
「私、山田彩香。よろしく」
「水瀬結衣です。よろしくね」
「いいですね」
今度は自然だった。
「結衣ちゃんって、どこから通ってるの?」
「自宅から通っています」
「都内?」
「はい」
「一人っ子?」
結月の脳裏に直希の顔が浮かぶ。
「はい」
一瞬遅れた。
沙耶が記録する。
「今の間は?」
「弟のことを思い出しました」
「本番では気をつけてください」
「はい」
会話は続く。
「高校どこ?」
準備した設定で答える。
「部活は?」
「していませんでした」
「趣味は?」
結月は、そこで止まった。
本当の趣味を言ってよいのだろうか。
漫画。
ライトノベル。
とくに青春ラブコメ。
皇族がそれを好きだと知られること自体が問題なのか。
「趣味は、読書です」
「どんな本読むの?」
来た。
結月は迷う。
「……文学作品などを」
沙耶が手を上げた。
「止めます」
「何でしょう」
「今、嘘をつきましたね」
「文学作品も読みます」
「一番好きではないでしょう」
「それは」
「趣味まで全部隠すと、不自然になります」
「では、漫画が好きだと?」
「問題ない範囲なら構わないと思います」
結月の顔が明るくなった。
「青春ラブコメが好きです」
相手役の女性が笑う。
「え、意外。めっちゃ読むの?」
「はい。かなり」
「どんなの好き?」
結月は口を開きかけて、止まった。
実在作品の題名を出す必要はない。
それより、自分が何に惹かれているのかを話す。
「普段は素直になれない二人が、少しずつ距離を縮めていくお話が好きです。誤解したり、喧嘩したり、本人たちは苦しんでいるのですが、読んでいる側からすると『そこは一言聞けば済むのに』と思ってしまうような」
話し始めると止まらない。
「それから、幼なじみが報われない展開は少し苦手です。長年そばにいたからといって必ず結ばれる必要はありませんが、せめて本人が前を向けるくらいの救いは欲しいと思いますし、三角関係の場合も単純に片方を悪役へするのではなく、それぞれに理由があったほうが」
沙耶が咳払いした。
「結衣さん」
「はい」
「少し熱が入りすぎです」
結月は我に返った。
相手役の二人が笑っている。
「ご、ごめんなさい」
「いや、いいよ。結衣ちゃん、本当に好きなんだね」
その言葉に、結月は一瞬止まった。
そして。
「うん。好き」
自然に出た。
沙耶が手元の資料へ何か書く。
結月が気づく。
「今、何を書きました?」
「自然な会話が一回できた、と」
「一回だけですか」
「今のところ」
「厳しいですね」
「仕事ですので」
いつもの返事だった。
◇
夕方。
訓練を終えた結月は、ソファへ深く腰を下ろした。
「疲れました……」
思わず出た。
すぐ横にいた藤崎が目を丸くする。
「珍しいですね」
「何がですか」
「殿下が人前で『疲れました』とおっしゃるのは」
結月は少し考えた。
たしかに、あまり言った記憶がない。
「今日は言ってもよい気がしました」
「それはよいことではないでしょうか」
「普通の大学生なら、疲れたときに疲れたと言うのでしょう?」
「たぶん、かなり頻繁に」
「では練習です」
「そこまで何でも練習になさらなくても」
藤崎が笑う。
結月はソファにもたれたまま、今日一日のことを思い返した。
服装。
言葉遣い。
設定。
会話。
どれも思っていたより難しい。
「藤崎」
「はい」
「水瀬結衣は、嘘なのでしょうか」
不意に出た問いだった。
藤崎は少し考えてから答える。
「名前や経歴は、作ったものですね」
「はい」
「でも、中身まで作る必要はないのではありませんか」
結月は藤崎を見る。
「漫画が好きなのも殿下ですし、大学へ行きたいのも殿下です。友達が欲しいのも、たぶん同じでしょう」
「……そうですね」
「でしたら、水瀬結衣は嘘というより、今まで出す場所のなかった殿下の一部分なのでは」
結月はしばらく黙った。
その言い方は、少し好きだった。
別人になるわけではない。
内親王である自分を捨てるわけでもない。
ただ、今まで肩書きの下に隠れていた部分を出す。
「では、水瀬結衣も私なのですね」
「そうだと思います」
「少し安心しました」
その夜。
結月は机へ向かい、大学生活用に渡された新しいスマートフォンを開いた。
連絡先は、まだほとんどない。
家族。
警護担当。
緊急連絡先。
それだけ。
結月は画面を眺めながら想像した。
ここに、いつか友達の名前が増える。
講義の連絡。
遊びの誘い。
意味のない雑談。
夜中に送られてくる愚痴。
そして、もしかしたら。
好きな人の名前も。
「……そこまで考えるのは早いですね」
自分で自分に言い聞かせる。
それでも頬は少し緩んだ。
翌日は、いよいよ大学へ通うための最終的な警護訓練。
そして数日後には、進学先の大学で事前確認が行われる予定になっている。
水瀬結衣として、その場所へ初めて足を踏み入れる。
結月はまだ知らない。
そこが、彼女の人生で初めて「誰にも予定されていない出会い」が起きる場所になることを。
しかも、その相手は漫画の主人公のように優しく微笑みながら現れるわけではない。
第一声から、
「前、見て歩けよ!」
と怒鳴ることになる青年だ。
結月が夢見た青春ラブコメは、どうやら最初から筋書き通りには進んでくれないらしい。
第35話 手をつなぐ理由がありません 結月は、自分が人混みを苦手としているつもりはなかった。 公務では大勢の人の前に立つこともあるし、式典や行事で人に囲まれることにも慣れている。警備に囲まれて移動する場面も多かったから、人の数そのものに圧倒されることはない。 ただし、それと「休日の駅で、一般の利用客に混ざって自分の足で歩くこと」は、まったく別の技術らしい。「水瀬、こっち」「分かっています」「いや、そっち行くと反対ホーム」「分かっていました」「今看板見たよな?」「確認しただけです」「はいはい」 土曜日の午後。 二人は、前回約束していた書店へ再び足を運んだ帰りだった。 今回は互いに選んだ本の感想を少し話し、さらに別の棚を見て回ったせいで、予定より長く滞在してしまった。結月には午後の予定がなかったため問題はないが、駅へ戻った頃にはちょうど人の多い時間帯になっている。 家族連れ。 買い物客。 学生。 観光客。 改札前を行き交う人の流れは絶えず、ほんの少し気を抜けば別の方向へ押し流されそうになる。「高瀬さん、皆さん歩くのが速くありませんか」「水瀬が遅いんだよ」「私は普通です」「さっきから三回立ち止まって看板見てる」「間違えないためです」「それで後ろ詰まってる」「……では、もう少し速く歩きます」「無理しなくていいって。俺についてくれば」「その言い方だと子供扱いされているように聞こえます」「じゃあ迷子にならないでください、お嬢様」「やはり子供扱いではあり
第34話 高瀬さんが選んだ一冊 誰か一人のために本を選ぶという行為が、これほど難しいものだとは思わなかった。 結月は日曜日の夜、自室の本棚の前に立ったまま、もう二十分近く同じ場所を行ったり来たりしていた。自分が読む本を選ぶのであれば、ここまで迷うことはない。表紙を見て気になったものを手に取ることもあれば、好きな作家の新刊を迷わず買うこともあるし、書評や友人の感想を参考にすることもある。 けれど、今回の条件はまったく違った。 高瀬湊に読んでもらいたい一冊。 そう考えた途端、目の前に並んでいる本がどれも決め手を欠いているように見えてしまう。「恋愛小説は……少し露骨でしょうか」 棚から一冊取り出した結月は、裏表紙のあらすじを読んでから、すぐに元へ戻した。 身分の違う男女が惹かれ合い、周囲の反対を受けながら関係を深めていく物語だった。普段なら好きな題材であるし、実際に何度も読み返している。 しかし、今これを湊に渡す勇気はない。 自分たちの状況を知っているのは結月だけだとしても、「なぜこの本を俺に?」と聞かれた瞬間にまともな顔を保てる自信がなかった。 次に手にしたのは、秘密を抱えた女性が身近な男性に少しずつ心を開いていく小説だった。「これはもっと駄目です」 即座に戻した。 秘密、偽名、言えない事情。 今の自分には近すぎる。 まるで、自分から高瀬湊へ「ここに答えがあります」と赤い線を引いて渡すようなものではないか。 結月は腕を組み、改めて本棚を見渡した。 そもそも、なぜ自分はここまで悩んでいるのだろう。 前の話で湊と交わしたのは、「次に出かけるなら、お互いに一冊ずつ本を選ぼう」という軽い約束だった。学校の課題でもなければ、贈答品の選定でもない。もっと気楽に考えてよいはずなのだ。
第33話 それでも二人でいると楽しいのです 初デートではなかった。 少なくとも、高瀬湊本人はそう言った。 もっと正確に言えば、「最初からデートだと決めて誘ったわけではない」という話であって、結月が完全な勘違いをしていたわけでもなかったらしい。しかも最後には、「次にまた二人で出かけるなら、最初からデートだと言って誘うかもしれない」とまで言われた。 そのため、昨夜から結月の中では評価が定まらないままだった。 失敗だったのかと言われれば、まったくそんなことはない。 楽しかった。 むしろ、かなり楽しかった。 書店へ行き、昼食を食べ、雑貨を見ただけである。恋愛小説なら一章分を使うほどの出来事ではないかもしれない。それでも自分にとっては、帰宅したあとまで何度も思い返してしまうくらいには大切な一日になっていた。「……結局、デートかどうかにこだわりすぎたのでしょうか」 月曜日の朝、結月は紺色のノートを閉じながら独り言を漏らした。 昨夜最後に書いた文章が、やけに素直だった。『デートかどうかより、高瀬さんと二人で過ごすこと自体が楽しい』『なら、次も行きたい』 読み返すと、少し恥ずかしい。 けれど消したいとは思わなかった。 その二行だけは、どう考えても本当だったからだ。 ◇ 大学へ着くと、美月はいつものように先に来ていた。「おはよう、結衣ちゃん。で、どうだった?」 挨拶の直後である。「何がでしょう」「土曜日」「もう少し世間話を挟んでもよいのではありませんか」「昨日の日曜日、聞くの我慢したんだから褒めてよ。メッセージしようか三回くらい迷ったんだよ」「
第32話 初デートではない、と高瀬さんは言いました 「デートではない」と言われたあとに、その相手と二人きりで昼食へ向かう時間ほど、扱いに困るものはないのかもしれない。 結月は、その事実を身をもって学んでいた。 ほんの数分前まで、自分は休日の街を高瀬湊と並んで歩いているだけで楽しかった。大型書店では好きな本について話し、くだらないことで言い合い、いつもの大学とは少し違う服装を褒めてもらった。それだけで胸の奥がふわふわと落ち着かなくなり、もしかすると今日は、自分がこれまで漫画やライトノベルの中で何度も見てきた「初デート」に当たるのではないかと考えていた。 だから本人へ確認した。 父の「なぜ本人に確認しない」という、恋愛にはまるで似合わないほど合理的な助言を採用した結果だった。 そして返ってきたのが、『別に、そういうつもりじゃ』 である。「……」「……」 二人の間に、先ほどまでなかった沈黙が生まれていた。 湊は少し前を歩いている。 結月は半歩遅れて、その隣を歩いていた。 別に怒ってはいない。 少なくとも、怒る資格はない。 勝手にデートかもしれないと思ったのは自分だ。湊は最初から「本を見に行こう」としか言っていないし、「デートをしよう」と誘ったわけではない。 それなのに。 胸の奥には、薄い紙で指先を切ったときのような、小さいくせに無視しづらい痛みが残っていた。「水瀬」「はい」「さっきから静かじゃない?」「そうでしょうか」「そうだろ」「本を見たので少し疲れただけです」「一時間前まで、あのフロア全部見そうな勢いだったの
第31話 これはデートなのでしょうか 水瀬結衣として大学へ通い始めてから、結月は数え切れないほど「初めて」を経験してきた。 初めて友人と学食で食事をした。 初めて大学生の男性と二人で昼食を取った。 初めてアルバイトをした。 初めて自分で得たお金で誰かに飲み物を奢った。 初めてプリクラを撮った。 初めて相合傘をした。 そのたびに緊張し、失敗し、思っていたものと違うと知り、それでも最後には「経験してよかった」と思ってきた。 だから今回も。 ただの新しい経験。 そう考えればよい。 はずだった。「……こちらでしょうか」 土曜日の朝。 結月は自室の姿見の前で、三着目のワンピースを身体へ当てていた。「いえ」 数秒考え。「少し気合いが入りすぎているような」 ベッドの上。 一着目。 二着目。 椅子の背。 候補から外したカーディガン。 机の上。 アクセサリーが二組。 普段の大学生活では考えられないほど、部屋が服で散らかっている。「……こちらのほうが自然でしょうか」 四着目。 薄い水色のブラウス。 白に近いベージュのロングスカート。「でも、大学でいつも着ているものとあまり変わりませんね」 それが良いのか。 悪いのか。 分からない。 結月はスマートフォンを見る。 昨夜。
第30話 これは恋ではありません、と言い切れなくなりました 翌朝、結月は目を覚ますと、昨夜閉じたはずの紺色のノートをもう一度机の上へ置いた。 昨日、自分で書いた文章が気になって仕方がなかったからである。『高瀬さんも「分からない」』『私も「分からない」』『でも、二人とも相手が他の誰かと付き合うのは少し嫌』 そこまで書いてしまった。 しかも最後には、自分自身で「かなり分かりやすいのでは」とまで考えた。 朝になれば冷静になれるかもしれないと思ったのだが、残念ながら恋愛感情というものは一晩眠った程度では都合よく整理されてくれないらしい。「では、最初から確認しましょう」 誰に言うでもなく、結月は椅子へ座った。 机の上には、紺色のノート。 窓から差し込む朝の光。 そして、これから自分自身へ行う予定の、あまりにも個人的な検証。 公務なら資料の確認は得意だった。事実を並べ、状況を整理し、必要な結論を導く。曖昧な表現を避け、感情と事実を分けて考える。 ならば恋愛も同じように分析できるのではないか。 結月はそう考えた。 この時点で既に少し間違っていた。 ◇ 最初の記録。『昨日ぶつかった男。かなり失礼』 結月はその文章を見て、少し笑った。「これは間違っていませんね」 今でも失礼である。 そこは変わっていない。 さらにその下。『笑った顔は少しだけ悪くない』 結月は眉を寄せた。「……これは」 かなり初期。 まだ知り合って間もない頃。